本の中の言葉、アフォリズムとして

投稿日:2014年7月4日|カテゴリ:コラム

本を読んでいるときのことですが、電車や、自宅、仕事場でも、赤鉛筆、ラインマーカーなど使って線を引きながら読むのですね。気になったところ、重要と思われるところにひっぱる、中高校生みたいで少し恥ずかしいのですが。

とはいうものの、本棚から昔読んだ本を取り出してみると線を引いた跡はたくさんありますが、心に残っていないことのほうが多いのです。

若い頃ですと、経験不足からくる自信のなさのようなものを読書で追体験することで補おうとしていたのかもしれません。本の中の言葉を宝物みたいにして胸に抱きしめていたのに。若さの気まぐれのせいか、その場限りで忘れ去ってしまうこともあります。

いまでもよく覚えている印象深いセンテンスもあります。

心理学者、霜山徳爾氏でしたが、「高貴なものに対峙するには、ひとりではいけない。もう一人のまなざしが必要である。そうしないと自分を犯してしまう」。高貴なものとは、大切な人や物、たとえば芸術と言い換えてもいいのではないかと思います。人格の発展には1対1ではだめだといいたいのでしょうか、社会化されていく過程でスッテプアップしていくということなのかな。興味深い内容です。

これに連想して太宰治のある小説だったと思いますが、「尊敬とは軽蔑である、軽蔑は尊敬することである」というような内容の文章がありました。太宰は、尊敬されている人が嫌いだったのでしょうか。嫉妬、やっかみもあるのかな。もしくは、尊敬されはしてもやがて幻滅を通し、軽蔑に転じていく。先取りして予防したかったような気持ちも働いていたのかもしれないとも思えたりもします。尊敬も軽蔑も、自意識のポジションということでいえば、結局は等価であるということなのかもしれません。

知恵のある言葉は淘汰され時代を超え残っていきます。

「正直は結局は引き合う」「時は金なり」「継続は力なり」

考えさせられます。